「読書記録」を中心に、読んだ本、見た映画の記録、書評、ブックガイド、その他日常の徒然ね。


by hajime_kuri

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まもなく発売ですよ「しょこらふるーつ大福」
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どうして、こういう俺の身体によくないものを出してくるですか。笑。
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甘党の私に試練の季節。
まあ、その分、運動しますともさ。
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by hajime_kuri | 2005-12-22 14:20 | 糖尿病 | Comments(6)

禁煙5ヶ月目突入

というか、ああそういえば5ヶ月経ったなというところ。
すっかり例の「嘗めもの」(MINTIAとかのハッカもの)にはまっていますよ。

とりあえず、禁煙禁煙と声高に言うのもスマートではないので、

「あれ、タバコ止めたんですか?」と気づいた人にのみ、
「ええ、とりあえず止めてます」と答えるようにしている。

苦労してタバコを止めました、というポーズは死んでもしないぞ、というところ。

まじで、咳とか出ないならまた吸いたいですよ。
と、表向きは言っている。

また「タバコを吸わない人のために止めたわけじゃない」ということは声を大にして言っておきたい。というか、手前らのために止めたんじゃねえよ、ばか。
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by hajime_kuri | 2005-12-15 10:16 | 糖尿病 | Comments(2)
この記事は、Gun0826さんのブログにトラバしました。
こういう創作に関することを考える機会を与えていただける良ブログです。
試みに

ハッピーエンドとは、物語などが、幸せな結末を迎えることである。
カタルシスとは、物語などを読み終えた後に感じる、一種の爽快感である。
物語世界への感情移入が行われることで、日常生活の中で抑圧されていた感情が解放され、快感がもたらされること。
特に悲劇のもたらす効果としてアリストテレスが説いた。浄化。
つまり、ハッピーエンドはカタルシスにつながりやすいが、必ずしもカタルシスはハッピーエンドではないということである。というようなことをはじめて考えたのは今を去ること20年ほど以前のこと。
当時、社会人として営業職について、一日中、得意先を回り、販路拡大のために飛び込み営業をしていた頃のことである。
ちょうど笹沢佐保の「木枯らし紋次郎」シリーズが、春陽堂から文庫で出始め、夢中で読んでいた時である。
さらに遡る事10年ぐらい前が、テレビドラマ化もされた同シリーズのブームなのであるが、それを辿るようにして活字作品として読んだのである。
物語は掛け値なしに面白い。しかし、救いがない。紋次郎はいつも巻き込まれる形で争いの渦中に立ち剣を振るう。そしておおむね誰からも感謝されず、自ら身を引いて旅に戻る。
この救いのない物語がなぜ、こんなにも読者にカタルシスを与えるのだろうかと考えた。
そして、これはストーリーのカタルシスではなく、物語を貫く美学のカタルシスであろうと気づいた。紋次郎は、「寡黙」で「泣き言を言わない」し「孤独を恐れず、我慢強い」、たとえそれが虚無感からくるものであろうとしても、それは日本人の美意識にとって「美しい」態度なのである。そして、当時の主たる読者であるサラリーマンのお父さんたちは、紋次郎の後姿に、自分たち企業戦士と同じものを感じたのではないか。
家族からすら亭主元気で留守がいい、と言われる父さんたちは、紋次郎に自分を重ねて、ひっそりと自分に対して胸を張っていたのである。
これもまた、物語のカタルシスといってよいのであろう。

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作者は小説を書いています。よろしければお読みください。(Kindle版です)

1988 獣の歌/他1編

神様の立候補/ヒーローで行こう!
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by hajime_kuri | 2005-12-15 09:57 | エッセイ | Comments(8)

「聞いたか坊主」

歌舞伎の『道成寺』や『鳴神』では、幕開きに坊主姿の役者が登場する。
「聞いたか、聞いたか?」
「聞いたぞ、聞いたぞ」
と、言い合いながら、客にストーリーを知らせておく。彼らを、「聞いたか坊主」という。
「説明的なせりふ」のことで、シナリオのセミナーや教科書では、絶対にやってはいけないとされている。
そういったセミナーで例として挙げられるのが、下記のような情景描写である。

喫茶店の窓辺でコーヒーカップを前にしたカップル。
女が男のカップに角砂糖を入れてやる。

「二つだったよね?」
(昔交際していたが、久しぶりに出会ったらしいとわかる)

「・・・・・。」
(無言の場合は、現在交際中)

「いくつですか?」
(初対面)

といった具合。情景の描写で前提や設定を語れということである。
よいシナリオほど、せりふが少ないなどとも言われます。
が、実は、このやってはいけない「聞いたか坊主」だけで、物語を進めてしまった例がある。

それはあの名曲、

「港のヨーコ、ヨコハマ、ヨコスカ」である。
宇崎竜童作曲、阿木曜子作詞。

ヨーコの行方を追って、色々な人から、ヨーコのうわさを聞いていく、その伝聞のせりふだけで、「ヨーコと主人公の物語」がドラマチックに語られるのである。

武道の技の習熟度に「守・破・離」という言葉がある。
「守」というのは、正しい形を守って練習することである。
「破」というのは、その上で試行錯誤することである。
そして「離」。
これは自分独自のスタイルを作り上げた段階である。
「港のヨーコ、ヨコハマ、ヨコスカ」は見事に「離」の段階の作品であろう。

何事につけ、「破」の段階を「楽しむこと」ができると、自然に「離」へ到るようである。



ダウン・タウン・ブギウギ・バンド ベスト EJS-6167
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by hajime_kuri | 2005-12-02 15:05 | 評論 | Comments(3)