「読書記録」を中心に、読んだ本、見た映画の記録、書評、ブックガイド、その他日常の徒然ね。


by hajime_kuri

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兄の百済王によって処刑されかけた悲劇の王子、余豊璋。
才知溢れ、王位継承者でありながら不遇をかこつ新羅王族、金春秋。
冒険心に富み、天皇位簒奪への野心を燃やす倭国豪族、蘇我入鹿。
聖徳太子の大いなる遺志を継ぐために、策略を巡らす葛城皇子。
激動の東アジアの情勢は、4人の男たちの思惑と絡み合って、「白村江の戦い」へとつながっていく…

というのがアマゾンの紹介だ。
彼らの群像劇のスタイルを取りつつ、倭国(日本)の「白村江」の敗戦が何だったのかという仮説が語られる。
一読して気づかされるのが、当時の半島状況と現代の半島情勢の酷似具合。
高句麗=北朝鮮
唐=中華人民共和国
新羅=韓国右派
百済=韓国従北派
って関係性とよく似てるのだ。
彼らが、国防と政権安定のためにどの国と同盟をするかといった外交戦を、白村江の開戦20年前から追った物語である。
この外交戦争、政権抗争の手に汗握るダイナミックな物語だ。
どのキャラも素晴らしく際立っている。

実は夜勤明けで本来ならすぐ眠ってしまう私が、眠ることも能わずに最後まで読み通してしまった。
こんな時代歴史小説は今までなかった。「柳生もの」の軽妙な荒山徹も好きだが、こういった骨太な荒山徹もいいなあと、改めて惚れ直したしだい。

薔薇の刺青(タトゥー)/自転車の夏・栗林元
小説指南・栗林元
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by hajime_kuri | 2017-12-25 22:29 | 時代
 小説の語りでは一人称と三人称がある。これに関しては「1人称、3人称、神の視点」で説明した。基本的に一章、一段落などの間でこの人称が混在することはないし、混在すると物語が支離滅裂になって理解不能になる。
 では次の例文を読んでみよう。拙著「不死の宴・第一部・終戦編」の第九章の一部である。終戦の夜、秘密研究の関係書類を処分するシーンだ。

以下引用---

 竜之介は自分の研究室へ入ると、一人で、処分する書類を集めはじめた。私物の類はすべて昨夜のうちに処分していた。古文書は諏訪神社と諏訪神党に隠匿を依頼してある。すでに本棚にはいくつも隙間が開いていた。さらにそこから焼却する資料を抜いていく。
 北島や西城たち、実験兵の身元関係資料の公式記録である。彼らの存在は、記録からも消えてしまうのである。
 資料に目を落とし、竜之介は四人の顔を思い浮かべた。
 初めて彼らを迎えにいった時、彼らが分室に集まった二年前の晩秋の頃を思い出した。北島のジョークや、東郷のきまじめな表情や、南部の剽軽な笑顔や、西城の恥ずかしそうな照れ笑いを思い出した。彼らを慕うみどりの笑い声を思った。
 記録から消えても、彼らがいたことだけは事実だ。忘れまい。忘れるものか。

以上引用---

 淡々とした三人称の語りの中に、突如、挿入された一人称的表現。最後の行の、”忘れまい。忘れるものか。”は、本来なら、”忘れまい、忘れるものか、と竜之介は思った。”と語られるべきなのだが、それを略して一人称のモノローグのようにしたことで、ぐっと読者の心に刺さるのである。
 ただし、これは頻繁にやってはいけない。「ここぞ」という場面に使う表現である。それでこそ効くのだ。
 また、これは作者が登場人物の竜之介の心情にすっかり憑依されている証拠でもある。これを書いている時、私は北島や東郷や西城やみどりたちの、この物語以後の運命を思い、すでに続編を書く気持ちを持っていた。
 ”忘れまい。忘れるものか。”という竜之介の言葉は、「必ず続編を書き、おまえ等の運命を見届けてやるからな」という作者(私)の密かな決意表明でもあるのだ。

薔薇の刺青(タトゥー)/自転車の夏・栗林元
小説指南・栗林元
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by hajime_kuri | 2017-12-01 20:23 | 小説指南